すでに長いこと「辞めたい」と思っている。
不満はある。上司との関係も変わらない。将来のイメージも描けない。なのに、いざ辞めようとすると「でも…」という気持ちが出てくる。
「ここまで続けてきたのに。」「今まで積み上げてきたものを全部手放すことになる。」「お世話になった人たちに申し訳ない。」
この「でも…」は、今の職場が本当に良いということではありません。「すでに投じたものを失いたくない」という、脳の反応です。
「もったいない」の正体
「5年間続けてきたのに辞めるのはもったいない」という感覚は、合理的に見えます。でもこれは、意思決定において見過ごしてはいけないバイアスです。
経済学・心理学では、すでに投じてしまって取り返せない費用を「サンクコスト(sunk cost、埋没費用)」と呼びます。サンクコストは、今後の選択によって変化しません。今の会社を辞めても続けても、これまでの5年間は変わらない。
合理的な意思決定では、サンクコストは無視すべきです。「今後どちらの選択がより良い結果をもたらすか」だけを判断基準にするのが正しい。
しかし実際には、ほとんどの人がサンクコストに引きずられます。これを「サンクコスト効果(sunk cost fallacy)」と呼びます。アークスとブルーマーの研究では、すでに費用を支払ったという事実が、その後の行動に非合理な影響を与えることを複数の実験で実証しています(Arkes & Blumer, 1985)。
転職の場面でいえば、「5年間続けてきた」という過去の投資が、「続けなければもったいない」という感覚を生みます。これは今の会社が自分に合っているかどうかとは、別の話です。
損失回避|「得る」より「失う」が2倍怖い
サンクコスト効果に重なるのが、損失回避(loss aversion)のバイアスです。
転職できない心理の全体像でも触れたように、人間は利得よりも損失をおよそ2倍大きく感じます(Kahneman & Tversky, 1979)。
転職という選択を損得で考えるとき、頭の中でこんな計算が起きています。「転職してうまくいった場合の得」と「転職して失うもの」を比べるとき、後者が自動的に2倍の重さを持って感じられます。年収が上がる可能性があっても、今の安定を失う恐れの方が大きく感じられる。環境が改善するかもしれなくても、積み上げた人間関係を失う痛みの方が先に来る。
この非対称性が、「辞めたい気持ちはある、でも踏み出せない」という状態を長く続けさせます。
また、163の研究を対象としたメタ分析では、サンクコスト効果は自我への脅威や意思決定への責任感が強いほど大きくなることが示されています(Sleesman et al., 2012)。「自分が選んだ職場だから」「ここまで続けてきた自分を否定したくない」という感覚が、埋没費用への執着をさらに強めます。
キャリアにおけるサンクコストの特殊性
一般的なサンクコストはお金や時間ですが、転職の場面ではより複雑な「投資」が絡みます。
年功序列への投資: 「あと数年続ければ管理職になれる」「勤続年数が増えるほど退職金が増える」という積み上げ。これは今後の選択に影響しうる実利ですが、「これまで積み上げたこと」への執着と混在しやすくなります。
人間関係への投資: 長年かけて築いた同僚・上司との信頼関係は本当に価値があります。ただし、「辞めることへの罪悪感」と区別する必要があります。関係は職場を離れても続けられます。
専門性への投資: 「この仕事でしか使えないスキルを磨いてきた」という感覚。しかしスキルの多くは転職先でも活用できます。「ここでしか通用しない」という認識自体が、バイアスである場合も少なくありません。
これらは「今の職場を続けるべき理由」ではなく、「すでに投じたコストを取り戻せない恐れ」から来ていることが多くあります。サンクコスト効果が学習によって弱められることは研究でも示されており(Strough et al., 2008)、「これはサンクコストかもしれない」と気づくだけでも、判断の歪みは小さくなります。
「今から何を得るか」に問いを立て直す
サンクコスト効果から抜け出すために有効な視点があります。「これまで何を投じてきたか」ではなく、「これから何を得られるか」に問いを移すことです。
「5年続けてきた」という事実ではなく、「次の5年、この会社にいることで何が得られるか」を問う。過去は変えられませんが、未来の選択肢は今の決断にかかっています。
不確実性不耐性の記事で整理したように、転職の決断は「完全にわかってから動く」ことはできません。サンクコストの文脈でも同様です。「今まで投じたものを取り戻す」ことを目的にした選択は、これからの自分にとっての合理的な選択とは異なります。
「辞めることで失うもの」を正確に見極めるためには、それが「サンクコスト(過去の投資への執着)」なのか、「今後も本当に必要なもの」なのかを分ける作業が必要になります。
今日からできる小さな一歩
- 「続けてきたから」と「続けたいから」を分けて考える: 今の職場を続けたい理由を書き出し、「これまで○年続けてきたから」という理由を除いてみる。それでも残る理由が、今後の選択の根拠になります
- 「失うもの」を一つずつ検証する: 「転職したら失うもの」を列挙し、それぞれが「本当に失われるものか」を確認する。人間関係・スキル・経験は多くの場合、転職後も持ち越せます
- 「もし今この職場に入社する機会があったら受けるか」を自問する: サンクコストをリセットしたときの感覚を確認するための問いです。答えが「受けない」なら、「もったいない」はサンクコスト効果かもしれません
まとめ
「辞めたいのに辞められない」状態の多くは、今の職場が良いからではありません。「すでに投じたものを失いたくない」というサンクコスト効果と、「失うことへの恐れ」が「得ることへの期待」を上回る損失回避が重なっています。
過去に投じた時間・努力・感情は、今後の選択によって変わりません。意思決定の根拠にすべきは、「これまで何を投じてきたか」ではなく、「これからどの選択がより良い未来につながるか」です。
このシリーズの記事一覧
転職を止める5つの心理的メカニズムを一本ずつ解体するシリーズです。
- ハブ:転職できない心理の全体像|動きたいのに動けない5つのメカニズム(#227)
- 転職を決断できない理由|情報を集めるほど迷う「不確実性不耐性」のしくみ(#228)
- 本記事:辞めたいのに辞められない理由|「もったいない」の正体はサンクコストと損失回避(#229)
- 転職が怖い本当の理由|現状維持バイアスと変化への脅威(#230)
- 転職して後悔するのが怖い理由|反実仮想思考と予期後悔(#231)
参考文献
※1 Arkes HR, Blumer C. “The Psychology of Sunk Cost.” Organizational Behavior and Human Decision Processes. 1985;35(1):124-140. doi:10.1016/0749-5978(85)90049-4
すでに費用を支払ったという事実が、その後の行動に非合理な影響を与えることを複数の実験で実証した、サンクコスト効果研究の古典的論文。「もったいない」という感覚が意思決定を歪めるメカニズムの出発点となっている。
※2 Kahneman D, Tversky A. “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk.” Econometrica. 1979;47(2):241-268. doi:10.2307/1914185
人間が利得より損失をおよそ2倍大きく感じるという「損失回避」の原理を実証した行動経済学の基礎論文。転職において「失うもの」への恐れが「得るもの」への期待を上回る非対称性の理論的根拠。
※3 Strough JN, Mehta CM, McFall JP, Schuller KL. “Are Older Adults Less Subject to the Sunk-Cost Fallacy Than Younger Adults?” Psychological Science. 2008;19(7):650-652. PMID: 18727783
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/18727783/
年齢が上がるほどサンクコスト効果が弱まることを実証した研究。感情調節能力の向上が埋没費用への引きずられを小さくすること、すなわちサンクコスト効果が学習・気づきによって変化することを示唆している。
※4 Sleesman DJ, Conlon DE, McNamara G, Miles JE. “Cleaning Up the Big Muddy: A Meta-Analytic Review of the Determinants of Escalation of Commitment.” Academy of Management Journal. 2012;55(3):541-562. doi:10.5465/amj.2010.0696
163の研究を対象としたメタ分析で、サンクコスト効果が自我への脅威や意思決定責任感が強いほど大きくなることを特定した。「自分が選んだ」という感覚が執着を強める構造を裏付けている。
ダニエル・カーネマン著、村井章子訳『ファスト&スロー(上・下)』早川書房、2012年。
ノーベル賞経済学者カーネマンによる、損失回避・サンクコスト・システム1/2思考などの認知バイアスを網羅した著作。「損失は利得の2倍痛い」という非対称性と、その脳内プロセスを平易に解説する。


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