「相手が何を言っているのかわからない」と「自分の言っていることが伝わらない」は、同じすれ違いの表と裏です。
どちらも不快な経験です。どちらも「誰かが悪い」わけではありません。でも、どちらも放置すると関係を消耗させます。この2つの経験に何が起きているかを理解することが、すれ違いを減らす入口になります。
「わからない」ときに何が起きているか
相手の言っていることが理解できないとき、脳の中では複数のことが同時に起きています。
言葉の意味を処理しながら、文脈を補完し、意図を推測する。この認知的な作業が増えるほど、理解は「推測」に頼ります。バデリーの研究では、作業記憶(working memory)の容量には限りがあり、処理が複雑になると理解の精度が落ちることが示されています(Baddeley, 1992)※1。会話の中で「わからない」が積み重なるとき、脳は限界に近づいています。
わからない状態に気づかずにいると、脳は自動的に「わかったこと」として処理を進めます。その「わかったこと」は実際の意味とずれていることがある。すれ違いの多くは、このギャップから生まれます。
「わからない」と言えないとき、会話は表面だけ成立した状態で進みます。
「伝わらない」ときに何が起きているか
「ちゃんと説明したのに伝わらない」という経験の背後には、「知識の呪い(curse of knowledge)」があります。
バーチとブルームの研究では、ある知識や経験を持つ人は、それを知らない状態を想像することが著しく難しくなることが示されています(Birch & Bloom, 2007)※2。「これはわかるはずだ」「説明しなくてもわかる」という感覚が、実は「知っているから当たり前に見える」という錯覚から来ています。
伝わらない側は「伝えたのに」と感じます。伝わっていない側は「聞いていなかったわけではない」と感じます。どちらも本当のことを言っています。ずれているのは、前提の量と質です。
「伝わらない」経験が続くと、「もう説明しても無駄だ」という諦めや、「理解してもらえない」という孤立感が生まれることがあります。
「伝わらない」ことへの感情的な痛み
「理解してもらえない」という経験は、単なる不便ではありません。
アイゼンバーガーらの研究では、社会的な排除や拒絶は、脳の痛みを処理する領域(前帯状皮質)を活性化させることが示されています(Eisenberger et al., 2003)※3。「わかってもらえない」という経験は、文字通り痛みに近い感覚として処理されます。
「なんでわかってくれないの」という言葉の背後に、「自分の存在が受け取ってもらえていない」という痛みが隠れていることがあります。責められた気がするシリーズで整理したように、言葉のすれ違いは感情の傷つきと直結します。
理解は共同作業
「わかる」「伝わる」は、送り手だけでも受け取り手だけでも成立しません。
バヴェラスらの研究では、会話における聴き手は単に受動的に情報を受け取るのではなく、うなずき・相槌・表情などを通じて会話の意味を共同で構築していることが示されています(Bavelas et al., 2000)※4。理解は話し手と聴き手の共同作業です。
「伝える責任は送り手だけにある」でも「理解する責任は受け取り手だけにある」でもありません。すれ違いを解くには、どちらかを責めるのではなく、「どこで共同作業が止まったか」を観察することが助けになります。
思考の癖シリーズで整理したように、「相手が悪い・自分が悪い」という二項対立ではなく、プロセスを観察する視点が変化の入口になります。
今日からできる小さな一歩
- 「わからない」を声に出す練習をする: 「わかったふり」をせず、「もう少し説明してもらえますか」と言える場面を1つ作ります。わからないと言える関係が、すれ違いを減らします
- 「伝わった確認」を1つ追加する: 説明した後に「どう受け取ってもらいましたか」と聞く習慣を作ります。伝えた内容と受け取られた内容のズレを早期に見つけます
- 「伝わらない痛み」を観察する: 「なんでわかってくれないの」という感覚が来たとき、それが軽い痛みの反応であることを観察します。怒りや諦めの前に、まず痛みに気づきます
まとめ
「わからない」ときは認知的な限界と自動補完が起きています。「伝わらない」ときは知識の呪いと前提のズレが起きています。そして「理解してもらえない」という経験は、痛みに近い感覚として処理されます。
理解は共同作業です。どちらかが完璧に説明し、どちらかが完璧に理解する、という構造ではありません。すれ違いは誰でも起こします。問題は、気づいてから何をするかです。
このシリーズの記事一覧
すれ違いの構造と、対話を修復するための方法を整理するシリーズです。
- すれ違いはなぜ起きるのか|言葉が正確に届かない理由と構造
- 本記事:「わからない」と「伝わらない」の両面|すれ違いが生まれる心理のしくみ
- 価値観・世代・背景の違いがすれ違いを作る理由
- すれ違いを減らす対話の設計|伝わる会話の作り方
参考文献
※1 Baddeley A. “Working memory.” Science. 1992;255(5044):556-559. PMID: 1736359
作業記憶の容量には限りがあり処理が複雑になると理解の精度が落ちることを示した研究。会話の中で「わからない」が積み重なるとき脳の処理が限界に近づくという記事の根拠となっている。
※2 Birch SAJ, Bloom P. “The curse of knowledge in reasoning about false beliefs.” Psychol Sci. 2007;18(5):382-386. PMID: 17576274
ある知識を持つ人はそれを知らない状態を想像することが著しく難しくなることを示した研究。「知識の呪い」が「伝わらない」経験の背景にあることの根拠となっている。
※3 Eisenberger NI, Lieberman MD, Williams KD. “Does rejection hurt? An FMRI study of social exclusion.” Science. 2003;302(5643):290-292. PMID: 14551436
社会的な排除・拒絶が身体的な痛みと同じ脳領域を活性化させることを示した神経画像研究。「理解してもらえない」という経験が痛みに近い感覚として処理されることの根拠となっている。
※4 Bavelas JB, Coates L, Johnson T. “Listeners as co-narrators.” J Pers Soc Psychol. 2000;79(6):941-952. PMID: 11138762
聴き手が受動的な受信者ではなくうなずき・相槌・表情を通じて会話の意味を共同構築していることを示した研究。理解は送り手と受け取り手の共同作業であるという記事の核心の根拠となっている。
※A 池上彰著『わかりやすく〈伝える〉技術』講談社現代新書、2009年。ISBN:9784062879774
「伝わる」説明の技術と、なぜ伝わらないのかを平易に解説した書。知識の呪いを克服して相手の立場に立つ実践を豊富な例とともに示す参考文献となっている。
※B 斎藤孝著『コミュニケーション力』岩波新書、2004年。ISBN:9784004308768
日本語コミュニケーションの構造と、理解を共同で作る対話の実践を解説した書。「わからない」「伝わらない」の両面から対話を再設計するための実践的参考文献となっている。


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